令和6年盂蘭盆会のご案内
2024年08月02日
本年の「盂蘭盆会・法要の夕べ」は昨年同様に上記の通り勤修させいただきます。長徳寺のお盆は、いつからか皆様が夕方から夜にかけてお墓参りをされます。その際、本堂に住職が常駐しており、ご希望のお宅は、ご家族・親族が本堂におあがりになって、〇〇家先祖代々のお盆のお経をあげていかれます。
お盆の霊的で荘厳な雰囲気は、多くのご先祖がたがお帰りになることと、皆様がお迎えになるお気持ちがあればこそだと思います。静かなのに、お墓や本堂、暗い空がざわざわしている感じがするのです。お仏壇にお飾りする盆提灯は、お迎えする意味と、ご先祖さまの霊魂のようなものを象徴し形に表す意味があると私は思っています。盆提灯のぼわっとしていながら厳かな様子は、それ以外のものでは表現しえない、まさに日本人のお盆であると思います。
日本の営みの中で、このように現実と仏の世界が融合したような不可思議な雰囲気を体感することを、私はとても大切なことだと思っています。世の中の作られたものは、もとは誰かの心を発端としています。現実と思い込んでいる物や習慣や制度など、既存のものだから、現実なんだ、決まってるものなんだ、新しいものは優れているんだと思い込むのは大変危険です。現実か空想かで線引きをするのではなく、それをつかさどる思想の本質に着眼しなくてはいけません。思想が先にあり物事が後になります。だからこそ、その民族が長年にわたって伝えてきた日本でいえば神事や仏事、土地の習慣が大切なのです。その対極にあるのが、貨幣や法律、偉そうな学者や医者のいうことであり、どのような命もいとなみも元来、否定されたり、命令されるものではないのです。和や尊重を先とすれば、そのようなことは起こりえません。その国の古来の文化を古きものにしたり否定しだした時点で、別の目的があるのです。世界のほとんどの原住民が自治や本来の文化を失っています。
浄土真宗のお盆について、お若いかたがネットなどでお調べになって「浄土真宗はなにも飾らなくていいのですね」と確認されることがあります。おそらく昭和40年代あたりの浄土真宗内の若者や学者がそのような記述をされたことが発端ではないかと思いますが、これは、この時代に育った僧侶や学者が影響された戦後教育の結果だと私は考えています。現在でも、現実的な歴史としても、地方によって様々にお盆の文化・作法がございます。
市営墓地にお墓があるのに、長徳寺のご門徒になってくださったかたがいらっしゃいます。奥様が長崎のご出身で、お盆には有名な精霊流しがおつとまりになる地域のお生まれです。お亡くなりになったご家族がいると、その年の新盆はお写真などをもって、山車というのでしょうか、、、ご親族が行列をなして町を歩くのだそうです。この地域にはこのようなお盆の文化はないので、とてもうらやましく思いました。
宗祖親鸞聖人は、地域やご家庭の文化を否定して、自説を説かれるということはされないと私は思います。地域や故郷の風習を、ご家庭内で伝承されていない場合でも、お盆の本質的なところを皆様なりにご理解されて、毎年その時期にお心を共にされたら、なによりの立派なお盆にしてくれはります。(してくれはりますと、関西言葉になってしまいましたが、関東言葉ではおそらくこのニュアンスにあたる言葉はないような気がします)おおよそ、仏教行事は、私がすることなど些細なもので、仏様がご先祖様がなされることに、存在そのものに、自然と手が合わさるものだと思います。
平成26年より、長徳寺墓地の全てのお墓に小さな灯籠をお供えさせていただいております。本年で11回目となりますが、年々厳しくなる暑さにより、毎年、灯籠設置のお手伝いのかたがたの作業が困難を極めております。本年はなんとか実施する方向ですが、来年も実施できるかはわかりません。一期一会のお盆を本年も皆様と共に迎えられますことに感謝申し上げます。